6月の終わりくらいに西条北中駅伝部が結成された。
メンバーはやはりほとんど陸上部、あとはサッカー
部3名、テニス部2名とアウェイ感半端なかったが、
唯一、駅伝部監督がサッカー部の顧問のギャル男
(藤田先生)だった事だけが救いだった。
練習はまず3㎞コースを走らされた後、グランドをひ
たすら周るインターバル走がすこぶるキツかった。
部活を引退してから何でこんなしんどい事せないか
んのん?と、放課後になると憂鬱になっていたが、
それでも「陸上部の奴らには負けたくない」という
反骨精神と、片想いの君、石橋さんが生徒会から
マネージャーとして派遣されていたので「いいとこ
見せたい」という下心が私の足を突き動かした。
競走大会に向けた選手7名を絞ろうとしていた最中の
ひうちの岸壁で行われた3㎞タイムトライアルで、
やけに調子いいなと思っていたら、北中前人未踏の
9分台を出してしまった。
9分台と言えば、当時の常勝軍団、東中のエース片山
(こいつもサッカー部)に肩を並べるタイムという
事で、ギャル男はもとより、陸上部の顧問たちも遽
にざわついていた。
てな訳で先生の信望を得た私は駅伝部の主将に選ば
れてしまった。
先生たちに期待をかけられプレッシャーでしかなか
ったが、3年連続学級委員長という俺が俺がのリーダ
ーシップが顔をのぞかせ、臆せず先頭に立って駅伝
部を引っ張った。
そして選手が決定し私は最長区間5㎞を走る1区に
選ばれた。
加藤、井上(サッカー部)
山地、相良、松本、澤田、2年の西原(陸上部)
駅伝大会に臨んだ。
スタート前、ユニフォームを着たいかにも速げな他
中学の選手を見て、尋常でないプレッシャーに押し
潰されそうだったが、その先で待つ仲間に何として
も繋ぐんだという使命感と1人じゃないという安心感
で何か勇気をもらえた。
結局区間順位は30位くらいだったが、後続の頑張り
で西条北中は24位でフィニッシュした。
その後1月に開催された市内駅伝競走大会でも1区、
こちらは1区間3㎞だったので、あまり気負う事なく
走れて駅伝部最後の大会を区間賞でフィニッシュ。
2区の選手にたすきを渡す瞬間、暑い中のグランドに
倒れこんだ事や、冬の商店街で仲間と一緒に走り込
みした事など、いろんな想いが走馬灯の如く駆け巡
り、思わず涙が溢れ出ていた。
これでもう俺の長距離は終わった。
「あのプレッシャー地獄に再び足を踏み入れる事は
ないだろう」当時はそう思っていた
その後西条高校に入学し、めっぽう距離の長い校内
マラソン大会がある事に気付いたが、勿論その時に
は、真剣に走る勇気のカケラも残っていなかった。
またまたつづく(^◇^;)