カトーのオモロいブログ

カトちゃんです。本業は看板屋です。ありのままの自分をさらけ出したいと思います。

空と君のあいだに

昨夜はさんぶんの打ち上げの後、川崎にいる兄夫婦

が帰省していたので、実家で少し飲みました。

 

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昭和38年1月に加藤家の長男として生まれ、5歳下の

妹(私から見て姉)と、10歳下に私がいました。

 

私が生まれる頃までは、うちはド貧乏でした。

 

父も母も今治出身で、当時看板の養成所になってた

西条のセーラー工芸社に丁稚奉公的な立場で働き、

働けど働けど上が吸い上げるだけで給料は上がらず

 

内緒で副業のバイトで栄町上組のアーケードの飾

り付けをハシゴを掛けてしてたら、酔ったオッサン

が自転車で突っ込んできて落下。骨折して親方にど

やされたそうです。

 

そんな中、同じくセーラーで働いていた兄弟弟子の

現在の新居浜のせとうち広告の宮崎会長と2人で独立

を決意。

 

無理矢理独立したため、当時のセーラー工芸社の社

長から、塗料や資材の問屋から商品を卸させない、

といった嫌がらせを受けたそうです。

 

父は悔しくて、よくトイレの中で涙を流していたそ

うです。

 

苦難の経営が続く中、営業畑だった宮崎さんがペプ

シコーラの看板やタバコの看板などメーカー系の仕

事を取ってきて、職人の父が作成し、いつしか経営

も軌道に乗り、やがてお客さんを分け合い、宮崎さ

んは地元新居浜で、そして父は西条で同じ屋号の

「せとうち広告」を名乗り袂を分かち合いました。

 

それが兄が3歳の年の昭和40年4月。

 

最初は西条建設の前の昭和シェルのガソリンスタン

ドがあった借家でスタート。

 

その後、駅前にあった中野産業の近く、次に東町三

丁目と少しずつ広い工場付住宅を借り変えましたが

昭和40年代から50年代初め頃は中々裕福には程遠い

経営状態でした。

 

うちの両親は今治出身のいわゆる、よそ者。

 

土地もない、資産もない。保守的な土地柄の西条で

はどうしてもセーラー工芸社の一強でした。

 

それでも、徐々に友達が出来てきて、その仲間と西

青年会議所(JC)の設立にチャーターメンバーと

して携わり、少しずつ風向きが変わってきたそうで

す。

 

私が保育園、まだ東町三丁目にいた頃、それでもま

だ倹約しなければならず、おやつは大屋で買った大袋

のチョコと飴などが混ざったやつを兄弟3人で分ける

時、私と姉がチョコを食べたいだろうと、ワザと飴

だけ少しとって、残りを私と姉に分け与えていたの

を微かに覚えています。

 

私が小学校1年の時、今の朔日市の建物付きの土地を

購入し、念願の家持ちとなりました。

 

そして、その2年後、兄は大学進学のため、西条を、

家を出ました。

 

常に強い向上心と自立心を持って、大学に進学した

後は「もう西条には戻ってこない」と言ってたそう

です。

 

なぜなら西条で看板屋さんを継いでも、父と母に裕

福な思いはさせられないと思っていたからだとか。

 

兄が小さい頃、貧乏してた両親を間近で見てたため

か、ココ山岡のダイヤモンドのCMを見て、「勉強し

て大学に行っていい会社に入って、お母さんにココ

山岡のダイヤモンドを買ってあげる」と言ってたそ

うです。

 

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今では、兄も大きな企業で上役にいて、現在56歳。

定年も間近になってきましたが、今でもクリスマス

や誕生日には両親にプレゼントを贈っている優しい

長男です。

 

私も会社を法人化し、何とか13期目に突入していま

す。

 

父や母や兄や姉の苦労は半分も知らない私ですが、

兄の背中を見て、私なりに頑張って、加藤家のみん

なを幸せにしたい。

 

心からそう思っています。

 

平成最後のブログでした。