カトーのオモロいブログ

カトちゃんです。本業は看板屋です。ありのままの自分をさらけ出したいと思います。

風に立つライオン

本日のライオンズクラブ国際協会336-A地区  第65回

地区年次大会のご盛会、おめでとうございます。

 

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私の父は西条ライオンズクラブに入っています。

 

確か、私が小学校高学年の時、父が西条ライオンズ

クラブに入会するという事で、玉姫殿(現ドリーマ

ー)で、父に連れられ、母と私2人がステージ上で

紹介された記憶が鮮明に残っています。

 

その後、私が高2になった時に、父から「ライオンズ

で海外留学生を募集しよるけん、行かんか?」と言

われました。

 

これは高校生や大学生が夏休みに、ライオンズクラ

ブのスポンサーの支援で海外に留学する事ができる

YCE事業という制度です。(当時はYEって言ってた

かな?)

 

私はあまり乗り気ではなかったのですが、父があま

りに強く推してくるので、渋々行く事にしました。

 

「シカゴとかオーストラリアとか」魅力的な留学先

が並ぶ中、私のホームステイ先は南米のペルーでし

た。

 

フジモリ大統領の前のガルシア大統領時代、当時の

ぺルーは反日の真っ只中で、貧富の差も激しく治安

も極悪と聞きました。

 

私がビビりまくっていると、父は「精神的に鍛えら

れてこいよ」的な事を言うし、当時の西条ライオン

ズクラブ会長の山崎常行さんや、当時の担当委員長

だった寺田了三さんには、当時黒猫レストランで開

催されていた定例会での壮行会で、手厚い励ましの

お言葉をいただき、勇気を絞って40日を超えるペル

ーへのホームステイに旅立ちました。

 

松山空港まではアテンドの方や他のYE生仲間も一緒

でしたが、伊丹空港からは1人でした。成田空港で出

国手続きをし、バリグブラジル航空という、ペルー

のリマ経由、リオデジャネイロ行きの飛行機にて24

時間のフライト。

 

夜中にリマ空港に到着すると、看板を掲げて待って

くれている現地リマのライオンズクラブの方を見つ

けられず、1人で空港外に出てしまい、多分もぐりの

タクシーの運ちゃんたちが私の奪い合い。

 

東洋人=金持っている的な考えだったのでしょう。

 

あまりの恐怖に、タクシーの運ちゃんたちを無心で

振り払い、航空会社の事務所に駆け込みカタコトの

英語で状況を説明し、何とか通じて館内放送をして

もらい、ホストファミリーとライオンズクラブの方

に出会えました。

 

ホストファミリーは、日系3世の夫婦、高3の女の子

と高1の男の子の4人家族でしたが、日本語は話せず

公用語スペイン語と第2言語の英語での会話でし

た。

 

治安がすこぶる悪いため、分厚いドアは8重ロック、

窓という窓には全て鉄格子。怖すぎです。

 

なお、街に出ると、ほとんどのお店にライフルを持

った私設警備員がいて、どこからか銃声が鳴り響

く。怖すぎです。

 

食生活は、主食がジャガイモ。平皿にジャガイモと

焼いた肉を乗せたものが超大盛りで出てきました。

 

飲み物はレモネード。水道水は大腸菌だらけで決し

て口にしてはいけません。

 

湯船はありません。水圧の低いシャワーがあるのみ

で、真冬にも関わらず、温度も低めです。

 

トイレも水圧が低いため、流れない事が多く、ヤカ

ンで水で流していました。

 

そんな中、西条ライオンズクラブからいただいた、

10万円という過分なお金と、ホストファミリー始

め、ペルーリマのライオンズクラブの方々、日本人

会の方々の温かいおもてなしに心を打たれました。

 

日本語もほぼ話せず、カタコトの英語でコミュニケー

ションをとってきた、40日超のエキサイティングな

ペルーでの生活を終え、帰国し、西条に帰ってき

て、再び、西条ライオンズクラブの定例会で御礼の

ご挨拶をした時には、明らかに違う一皮剥けた自分

がいました。

 

今の自分があるのは、この経験があったからと言っ

ても過言ではありません。

 

この御恩を返したい。

 

そう思った時、当時の山崎会長、寺田委員長共、お

亡くなりになられてて、でも、いつか西条ライオン

ズクラブの定例会で御礼を申し上げ、御恩を返した

い、そして父の跡も引き継ぎたい。

 

そんな想いを今なお持っていて、どうしても「西条

ライオンズクラブに父の後代わりに入会予定です」

としか言えない自分がいます。

 

その時が来るまで、人として成長し続ける努力をし

研鑽を積み続けたいと思います。